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槙村浩と彼の抒情詩―「間島パルチザンの歌」
2012년 09월 30일 18시 22분  조회:1352  추천:1  작성자: 망향
槙村浩と彼の抒情詩―「間島パルチザンの歌」
 
故 鄭判龍(元延辺大学の副学長)
翻訳:金正雄 延辺大学 外国語学院
 
 
   何年か前に我が延辺大学を訪問した日本のある学者は私に槙村浩について話しながら「…おそらく、彼は東満一帯で活動した抗日パルチザンに関する詩を一番最初に書いている方でしょう」と話をした。
 日本侵略者が東北地方を侵略した後、我々の東北地域、特にわれらが住んでいる延辺の地では日本侵略者に反対する抗日闘争が継続的に行われてきていたし、また、このような闘争を反映する文学作品も少なくない。ところが、当時の抗日闘争は極めて困難に満ちた条件の下で行われたし、また、いろいろな歴史的な原因により、その時創作された作品が今日までに保存されているのは極めて少ない。それ故に、その時の状況のほとんどは、歌謡或いは革命物語、それにその当時抗日パルチザンに参加してた抗日闘士達の回想に頼るしかないのが現状である。
 それで、私は抗日パルチザン運動が展開されていた当時に、それもまた一般の人ではなく日本人の詩人が簡単な歌謡とか物語ではない叙情叙事詩を書いたことに対して非常に大きい興味を持っていた。その後、私は槙村浩の叙情叙事詩―「間島パルチザンの歌」原文を手に入れようといろいろな工夫をしたが全部だめだった。
 ところが、昨年の冬に偶然なチャンスで日本高知県解放運動旧友会にて編集出版した『槙村浩文集』一冊をようやく手に入れることができた。私はこの本を通じて槙村浩は26歳の若さでこの世去ってしまった若き日本革命家であり、「間島パルチザンの歌」は彼が1932年3月13日に書いたもので日本プロレタリア作家同盟機関紙である「プロレタリア文学」(臨時増刊)に初めて発表された一編の叙情叙事詩であることを確認することができた。
 高知県解放運動旧友会の代表である岡本正光先生は『槙村浩文集』の前書きの中で「1983年9月3日は土佐が生み出した反帝反戦詩人として広く知られている槙村浩の逝去45周年の日である。この日を目の前にして、我々は26歳の若き年で世を去ったこの同志の革命的戦闘的な文学と彼の人生を再び回想すること」でこの文集を編集するようになったと書いている。
 彼の話の通りに槙村浩は日本の優秀な革命詩人の一人であり、我が中国東北地方と延辺地域で抗日パルチザン闘争が高潮に入った30年代に抗日パルチザン戦士達を声高く歌った日本の唯一の革命詩人である。
 槙村浩の本名は吉田豊道という。彼は1912年6月1日高知市の清貧な家庭で生まれた。彼は6歳の時に父親を失い、看護婦だった母親の手の下で育てられた。幼い時から彼の非凡な記憶力は周りの人を驚かせたというが、その後彼がしたことを振り返ってみれば生れ付き非凡な才能を持っていた一人であることには間違いなさそうだ。小学校4年生の時からその当時日本の有名な詩人たちの作品を読んでおり、一部、西洋の古典文学作品も読み始めたようだ。彼が小学校時代に書いた童謡と童話からそのような痕跡を少なからず見ることができる。彼は中学校に通っているときから中国の唐宋時期の古文詩を愛読し、またマルクス主義の古典を研究し始めた。
 当時、日本の男子高校では現役の士官が来て学生たちの軍事訓練を担当していたが、槙村浩は他の一部革命的な学生たちと一緒にこれに反対する運動をして退学処分を受けるようになる。彼は日本の中学校においてのファシズム教育に嫌悪感を感じて、むしろ退学させられたことに対して幸いだと思っていたが、母親の切実な頼みと彼の才能を惜しむ先生方々の斡旋で岡山に行って学業を続けるようになった。1931年3月に槙村浩は優秀な成績で岡山中学校を卒業して故郷に戻ってきた。
 この時、日本軍国主義を反対する荒波は高知県にも影響を及ぼしていた。1927年から高知県では日本共産党と日本共産主義青年会それに労働組合などの高知地方委員会が成立され、1931年には日本プロレタリア文化同盟・作家同盟の高知地方組織まで設立されるようになった。
 中学校を卒業して家に戻ってきた槙村浩は、文章を書いたり翻訳のような仕事に就こうと思っていた。しかし、当時厳しい経済危機におかれていた日本で安定した仕事を手にすることはなかなか難しいことであった。1931年7月、彼はプロレタリア作家同盟に加入し、この同盟の高知支部設立ための準備事業に積極的に参加した。それに、彼は作家同盟に参加したその時から自分のペンネームを槙村浩とし、同年の11月に「大衆の友」の創刊号に槙村浩という名前で詩―「生ける銃架―満州駐屯軍兵士達へー」を発表した。
槙村浩はこの当時、文学活動だけではなく、日本共産党の地下組織が指導する日本労働組合全国協議協会の活動にも積極的に参加した。そうして、1931年12月下旬には日本共産主義青年同盟の指導メンバーの一人となり、高知県地方委員会の宣伝教育方面の責任者として任命された。
 槙村浩は小学校の頃から文章を書き始めたが、文学刊行物に正式に登載されたのは1931年に書いた「生ける銃架」である。この詩は、日本帝国主義がいわゆる「9.18」満州事変という名目の下で中国に対する公然とした侵略戦争を発動してわずか一か月も過ぎてない時点で、日本帝国主義のこのような強盗的な行為を批判するために書いたものである。彼はこの詩の中で、中国の革命的な労働者たちが日本帝国主義の侵略戦争に反対して戦う英雄的な姿を描きながら、日本軍兵士たちは帝国主義たちの生ける銃架にならず、銃口を日本軍国主義者たちにつきつけるべきであると叫んでいる。
 その翌年の1932年の初めころ、もと高知に駐屯していた日本軍歩兵第44連隊が上海戦線へ向かうという噂があった。槙村浩は共産主義青年同盟のほかのメンバーと一緒に第44連隊兵士たちに反戦思想を宣伝する目的でたくさんの反戦ビラを作って兵士たちに配った。ある時は、槙村浩などの青年たちは反戦ビラを持って警戒が厳しい連隊の兵営までにはいってビラを配布し、彼らのこのような行為は日本共産党の表彰を受けたという。槙村浩をはじめとする青年たちの努力により、日本歩兵第44連隊の一部日本兵士たちは上海戦線で中国19路軍愛国兵士たちと戦ういことを断ったという。この消息を聞いた槙村浩は、さっそく「出征」、「白色テロに倒された44連隊の革命的な兵士達へ」など二首の詩を書いて、中国と戦うことを断った一部の日本兵士たちの反抗闘争をほめたたえた。
 1932年3月13日、槙村浩は中国東北地方で烈火のように燃え上がる抗日パルチザンの消息を聞いて、彼らを褒め称える抒情叙事詩「間島パルチザンの歌」を完成した。この詩には槙村浩の一番重要な特色の一つであるプロレタリア(無産階級)国際主義思想が充分に反映されており、また、彼はこの詩によって日本の優秀な革命的詩人という栄誉を貰うようになった。
 1932年初、槙村浩は日本共産党に加入した。槙村浩は日本共産党の加入後にも相変わらず共産党青年組織と作家同盟で働いた。1932年4月21日、日本プロレタリア文化同盟を中心とする左翼文化人たちを弾圧するために、日本軍警らは全国的規模でいわゆる第三次総検挙をやり始めた。このために高知県の党員、共産主義青年団、共同組合のメンバー、プロレタリア文化同盟のメンバーの大部分がこの日の夜に日本軍警に逮捕された。槙村浩もその翌日の早朝、高知市内の自宅で逮捕され、高丘町警察署に連行された。
 槙村浩は日本軍警の苛酷な拷問にも屈することなく革命家としての意思を曲げることはしなかった。一緒に逮捕された少なくない「同志」は日本軍警の拷問に耐えられず、いわゆる思想「転向」声明書にサインをしたが、槙村浩をはじめとする何人かの真の共産党員たちは「死ぬことがあっても自分の主義は変えることはできない」と再三に言明した。
 苛酷な拷問により、槙村浩の健康は深刻に損なわれた。彼は食道狭窄症により一時期食事も口ですることができず、また後期には精神分裂症にもかかったそうだ。しかし、彼の革命精神は少しの動揺もなかった。1933年4月28日、日本政府は槙村浩をいわゆる秘法的な左翼文化組織の責任者であり、文章を持って「日本帝国を冒涜した罪」で三年間の有期判決を下すと宣告した。
槙村浩は獄中生活の中でも作詞に精進した。「思想転向声明」に同意しなかったということで、彼には鉛筆や紙などを与えかった。槙村浩は詩を考えては出来上がった詩を何回か読むことでその詩を暗唱したという。そうして、1935年6月に出獄後それを原稿用紙に書き直して出版したそうだ。
 獄中で書いた詩の中には、献詩ー「青春」、タタル海峡以南である北海道の監獄に監禁されている革命同志を懐かしんで書いた詩ー「タタル海峡」、獄中で国外労働階級の革命活動を声援する詩―「獄中でドイツの革命同志を偲んで歌った歌」、「中国の詩人たちに」、「獄中でコミュンテルン戦士たちを偲ぶ」などがある。タイトル自体が説明しているように、獄中で書いた彼の詩は、全てが無産階級の国際主義と同志愛、それに敵の如何なる強圧にも屈しない革命節義を守ろうとする彼の精神で一貫している。
 それに彼は監獄の中で、政治犯達を感化させるために監房ごとに配置された仏教経典と儒教道徳著書をすべて読んだという。出獄後の彼は、これを基にして『アジア的な生産に基づいた政治・経済・文化の批判』いう著作を一編書いたというが、この本の中に出てくる数多い仏教経典と中国古典の引用文は、すべて監獄の中で覚えたものを書き写したものだという。
 1935年6月、出獄した槙村浩は主に家の中で療養しながら、詩を書いたり著述活動に従事したという。その当時、高知県では弾圧された革命組織を再建する事業が猛烈に進められており、また新しい人民前線運動が展開されている時期であった。しかし、槙村浩の同志たちは彼の健康を心配して危険な地下活動には彼を参加させなかったという。しかし、槙村浩の健康は日増しに悪化した。1938年9月、不撓不屈の革命家でありプロレタリア詩人であった槙村浩は、26歳の若さにもかかわらず自宅で自分の戦闘的な生涯に終わりを告げた。槙村浩の遺骸は蛭ヶ谷にある彼の父のお墓の傍に埋蔵され、彼の戦友達は彼のお墓の前に「反戦革命的詩人槙村浩之墓」と刻み込まれた石碑を立てた。
 
 
「間島パルチザンの歌」は、中国東北地方で抗日烽火が激しく燃え上がった1932年に書かれた作品である。「9・18事変」以後、烈火のように燃え上がった抗日武装闘争は日本帝国主義者達に危機感を持たせており、彼らの「御用新聞」は毎日のように抗日パルチザンを冒涜する各種の「新聞報道」を載せた。たとえば、1930年6月2日の高知で出版された『土陽新聞』は、「間島不法朝鮮人蜂起、学校を燃やし電線を切断、爆弾を無差別に投げつけ放火、彼らの戦時焦土化計画を暴露」などのタイトルで間島地区で起こった人民たちの抗日武装闘争状況を歪曲するニュースを報道していた。彼らはこのように間島地区のパルチザンを「強盗」、「殺人犯」だと冒涜しているが、日本の進歩的な青年たちはこれを信じないばかりではなく、むしろこのような歪曲された報道を通じて間島パルチザンの英雄的な闘争を理解するようになった。
 1932年1月、日本共産主義青年同盟に参加した熱血青年である槙村浩は、間島パルチザン闘争の真実を日本の国民に伝え、また間島パルチザンに自分の敬意を送るために抒情詩「間島パルチザンの歌」を書くことにした。槙村浩がこの詩を書くためには、まず間島パルチザン闘争の真実とそこの地理環境を理解する必要性を感じた。それで、彼は毎日のように近所の図書館に通いながら関連資料を集め、また当時高知滞在中の朝鮮からの留学生と朝鮮人労働者を訪問して朝鮮人たちの生活習慣を把握したという。
 「間島パルチザンの歌」は、1932年3月1日に発行された日本プロレタリア作家同盟機関紙である『プロレタリア文学』臨時増刊に発表された。この詩は発表されてすぐ当時日本の進歩的な文芸界と青年たちの歓迎を受け、数多い群衆大会で朗読された。数年後この詩はブルガリア語で翻訳され、ヨーロッパ無産階級にも紹介されたというが、未だこれを証明できるような証拠は見付かっていない。
それに、槙村浩のこの戦闘的な詩が戦っている間島パルチザンの戦士たちに伝わったかどうかはわからない。日本帝国主義者たちの進歩的な文化に対する弾圧が深刻になるにつれ、この詩も禁止されたのは間違いない。
 この詩は、30年代初めごろに延辺地域で結成された抗日ゲリラ根拠地を守る一人の戦士の戦闘過程を回想する形で書かれている。詩の主人公は、朝鮮半島北部にある咸鏡道の貧しい家庭で生まれて幼い時から「チゲを負ひ、枯葉を集めに姉と登った裏山の楢林よ」のように苦しい肉体仕事をせざるを得なかった。その後、ソウルから里帰りした崔先生という若者から「10月社会主義革命」に関する物語を聞くことになり、次第に革命的に覚醒するようになる。1919年、朝鮮半島で凄まじい勢いの「3・1」反日民族闘争が勃発すると彼もやはり階級的に覚醒した大衆と一緒に反日闘争の隊伍に加入した。しかし、この闘争は日本軍隊と警察の残虐な弾圧により失敗に終わってしまう。その後、この詩の主人公をはじめとする12人の少年は、やむを得ない状況で頭満江を超えて間島<延辺地域>に来るようになる。間島に来てから13年の年月が流れた1932年には、彼らは全部立派なパルチザン隊員になって「銃を手に深夜結氷を越えた海蘭(ハイラン)の河瀬の音に」と「密林の夜襲の声を谺した汪清(ワンシン)の樹々のひとつひとつに×(血)ぬられた苦難と建設の譚を!」聞きながら間島のソヴィエト政権のために、日本侵略者と命がけの戦いをしたという。彼らはこの聖なる戦いの中で、「在満日本革命兵士委員会」の国際主義的な支持と声援を受けている。このように詩人は間島パルチザン隊員の平凡ではない経歴と彼の成長過程に関する描写を通じて日本帝国主義の侵略的な蛮行を非難すると当時に、戦っている延辺人民は「不死鳥」のようなものであり如何なる奸悪な勢力も彼の前進を遮ることはできないという信念を見せている。詩人は以下のように歌っている。

おれたちは間島のパルチザン。身をもってソヴェートを護る鉄の腕。生死を赤旗と共にする決死隊
いま長白の嶺を越えて
革命の進軍歌を全世界に響かせる
-海 隔てつわれら腕(かいな)結びゆく
-いざ戦はんいざ、奮い立ていざ
-あゝインターナショナルわれらがもの・・・・・・

 見てのとおりに、槙村浩の抒情詩は間島パルチザン隊員の一人の成長過程を通じて、30年代に戦っていた我々延辺地域人民の英雄的集団的な形象を創造したのである。延辺地域の抗日ゲリラ部隊は、中国共産党と抗日英雄である楊靖宇を司令官とする東北抗日聯軍の統一的な領導下で各民族の人民達で構成された抗日部隊である。しかし、当時(もちろん今も相変わらずそうであるが)の延辺地域は朝鮮族人民の密集地であり、又ここに住んでいる朝鮮族の大多数は朝鮮半島の北部から渡って来た人である。それに、その当時金日成同志をはじめとする数多い朝鮮の革命者達も中国の抗日戦士達と一緒に日本帝国主義を反対してここで困難に満ちた武装闘争を堅持したということを忘れてはならない。
 その故に、槙村浩のこの詩が一体どの抗日ゲリラ部隊を歌唱したのか、言い換えれば朝鮮の抗日ゲリラ部隊かそれではないと中国共産党の領導下に置かれていた中国の抗日ゲリラ部隊かという問題は求めて提起する必要がない。詩人自身もこの詩の中で「東方××(革命)軍」の軍旗に唇を触れ、宣誓した」ということを書いているが、これから見ると詩の中で言っている「間島パルチザン」は国家と民族の界線を超越したものであり、ひたすら共同の敵である日本帝国主義侵略者を反対して戦う抗日武装隊伍であるということである。だからこそこの詩は槙村浩のほかの詩と同じく、無産階級国際主義と革命精神で満ちている。
 「間島パルチザンの歌」は、30年代に出た日本プロレタリア詩歌文学としては優れた芸術レベルに達した作品の中の一つであるといえる。ここには主人公の成長過程を時間的な順番に従って叙述した叙述的な成分があるばかりではなく、詩人自身の革命激情を表現する叙情もあり、故郷の山河と長白山密林に対する切々たる情景描写もあり、また日本侵略者の野獣的な蛮行にたいする怒りを持った糾弾もある。詩人槙村浩は、この詩を中国の間島の地から遠く離れている高知で書いたにもかかわらず朝鮮半島北部にある咸鏡地方と延辺地域の山河に対する情景描写は、まるで彼がここでの生活経験を持っているのではないかと疑えるほど真実に書かれている。
 抒情詩「間島パルチザンの歌」は、50年前に僅か二十歳にしかなっていない一人の進歩的な日本人青年によって書かれたものであるが、革命のために殉じた烈士達が民族の尊厳と生存のために戦った輝かしい過去を再び生々しく我々の前に広げてくれている。
84年12月 延吉で




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